種をまいたら最後まで面倒を見よう

畑の日記
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種から育てて最後まで面倒を見よう

「種から育てて最後までやってみてほしい」

と、私の畑のお師匠さんがよく言っていました。

畑のお師匠さんって言っても、私が勝手にそう思っているだけですが。

母親ほど歳の離れた女性で、10年来のお付き合いです。

昔、通って畑仕事を教わったことがあります。

今はあまり会えませんが、たまあに直売所で会えます。

お師匠さんだけでなく、身近にいる畑をやっている女性を見ていて思うのが、

自己完結型で、責任感があること。

そうじゃないと、畑の管理者がつとまらないよね、と思います。

とても格好良いんですよ。

90歳くらいで農作業しているとか、本当に格好良く見える。

私も三輪スクーターに乗って、毎日畑に出勤する90代になりたい。

そんな大人の背中を見ながら、自分も種をまいたりしているのですが。

現実は、畑以外の仕事で糧を得て、畑は趣味程度にしている日々です。

しかもお仕事の日々も、なかなかに忙しいです。

育ててみると、育てる側の苦労がわかる

前述の畑のお師匠さんには、種まいたら最後まで面倒を見なきゃだめよ、と言われたことがあります。

畑での立ち話でした。

世の中の人に、食べるだけじゃなくてつくる経験もしてもらいたいと。

そうじゃなきゃ、苦労がわからないでしょうと。

ですよねえ。

今、私も仕事を持っていますが、

何の仕事でもそうだなあと思うことがあります。

コツコツ続けていると、責任のあるポジションにかかわっていく瞬間が時たま訪れます。

重たい仕事をやってみないか、助けてくれないかと問われるとか、そんなことを聞かれる瞬間があります。

そんなとき、誰かがやってくれるからと逃げちゃう人の多さよ。

自分は、今、すごく好きなタイプの仕事をしているのですが、

がんばればがんばるほど、「逃げ」ちゃう「誰か」の部分を負担する場面が増えて多忙になります。

その「誰か」的ポジションの作業をしていると、正直、面倒だし苦痛に思うことが多いです。

その分、居心地がいいと感じてくれて、働いてくれる人も増えるんですけどね。

そういう「逃げない系の人」って少ないです。

収穫したものを食べる(美味しい果実だけくれ)側の人が多いっていうことかな。

畑を開墾する側の人って少ないですよね。

石拾って草抜いて、暑さに耐えるよーな。

そういう大変さを想像できたら、もっと働きやすい世の中になるのでしょうか。

どうなんだろうか。

畑もオフィスも環境が大事

畑をしていると、人間も野菜と同じだよなあ、環境大事だなあと思うことが多いです。

居心地の良い環境であることが、まずとても大切。

そうじゃないとたいていは大きくなれない。

たまに、レアキャラもいますが。。。少数派です。

種から何かを育てて最後まで面倒を見ていくことは、マネジメント能力が鍛えられることだ。

毎年毎年、畑を管理していくことは、PDCAサイクルだと思う。

実際そのものなんだろうなと、勝手に腑に落ちています。

報われない気持ちを感じるときは天災と思うことにした

働いていてある意味、「逃げ」られて、

「あの人に任せておけばいいよ、やってくれるから」みたいに自分が貧乏くじを引いてしまうことってありませんか?

「ちくしょーー」と思いながらお仕事することってないですか?

私は、正直多いです。

そんなことが当たり前に結構あるんですよ。

ですが、仕事でむかついても畑に来てみれば、天気ばかりはどうしようもない。

天には逆らえない。無力。

こんな経験を繰り返していると、オフィス環境で起こるさまざまなできごとも、

「ある意味しょうがない」と肩の力を抜いた感じで思うことができます。

ムカつくあんなこともこんなことも。

『天災ぢゃ』柔ちゃんのおじいちゃんみたいに額にシワを寄せて思う。

天から降ってくる、災害みたいなもんだと思えばやり過ごせます。

春野菜の後はさっさと片づけて秋野菜を植えたり、

捨てたり交代して連作をさけるほうがいい。

そんなことを経験していると、今のポジションにしがみつかず、さっさと世代交代しよう、そんな気持ちが湧いてきます。

「次の人を育てよう」と、自分のスキルをこころよく公開したりします。

それが結局、後で自分を助けることにつながったりします。

曲がったキュウリやナスを見て思うこと

ナス1個、キュウリ1個収穫するためにも肥料や場所が必要です。

労力もいるし、1個の重さの何十倍もの量の廃棄物(葉っぱや茎や形のわるい野菜)が生まれます。

そういうものは結局肥料にするだけだから、捨てる野菜がたくさんあってもそれはそれでしょうがないと思っています。

畑にすき込んじゃえば、土フカフカになるしね。

よく「廃棄野菜をお金に」とか、「曲がったキュウリも売るために」

みたいなことを聞くけど、

それだけじゃ情報が少ないんだけど、あんまり私は、それはいいように聞こえないです。

身近でやさい系のコンサルとか加工とか六次産業とかの話に、あんまりいい話を聞かないからかもしれません。

それよりも、

「種から育てたものは、最後まで面倒を見よう」かな。

最後まで育てて、捨ててお片付けするところまで自分の手を汚そう、

みたいなことのほうが大切だと思っています。

美人はやっぱりいいよね

曲がったキュウリを眺めていると思うんですが、

野菜にも不細工と美人がいて、その場合の美人は、結構美味。

不細工に育つには、何かしら生育中途での決定的な理由があったりする。

※野菜の話です

肥料不足、環境の不遇、突発的なぶつけたなどの事故。

自分で種から育てたなら、美人だけお客さんに食べてもらいたい。

てか、お金をいただく商品は、そういうものをお出しをしたい。

曲がったやつは、家で消費したり煮たり焼いたりして工夫して食べます。

かわいいんだよ、曲がったお野菜も。

でもおもしろいことに、煮たり焼いたりしても、美人の野菜のほうが素直に(早く)煮えるんだよ・・・不思議なことに。

不細工(失礼)さんな野菜は、固くて煮るのも時間がかかることが多いです。

自分がブランドだとお師匠さんはおっしゃる

自分のつくった野菜は、直売所に出したなら、自分の名前がブランドなんだよね。

とお師匠さんが何度も言っていました。

自分の名前で出したからには、曲がったキュウリをつくる人、じゃなくて、

美味しい野菜だ、間違いのないものを出荷する人だと、そういう記憶を持ってもらいたい。

美人も不細工も、自分の畑でとれた野菜はみんな可愛い子だよ。

でも、売り物にするならね。そこは線を引きたい。

そんなことを畑でいつまでもおしゃべりしました。

もう何年も何年も前のことですが、私の大切な思い出です。

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